カサンドラな日々

「なぜか周りと噛み合わない」ズレを楽しむ人のブログ

子育ては、操り人形だ

私は母親から日常的な暴力を受けたわけでもないし

育児を放棄されたわけでもないし

ブタと間違われて、宇宙船から捨てられたというような、過去もない。

ただ、ただ、自分が息子を出産し、母親になってから

自分の「育ち」について考えるようになったのだ。

 

 

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 理想のペンダント

「私はお母さんのペンダントだったのでは?」

この疑問が私をジワジワ苦しめた。

 

母親には、可愛がられ、大切にされた。

でもそれは彼女自身を輝かせ、人からよく見られるための

ペンダント的な役割の範囲でしか、なかったような気がするのだ。

 

私は自分自身でいるよりも、母親が求める「娘」にれるよう頑張った。

自慢の娘でありたいと思い続けた。

誇らしいと思ってもらいたかった。

それに応え続ける自分にあった感情はたぶん「喜び」だった。

 

選ぶ洋服も、習い事も、進学先も、就職先も、紹介する彼氏も

すべて母親のことを考えながら決めた。

 

私が「間違った」「失敗した」と思う時は、

母親の反応がよくない時だった。

母のルールの中での失格をしてしまうと、

彼女は簡単に娘を突き放し、見捨てた。

「親の顔に泥を塗るのか」と怒鳴ったあとに泣く母親は、

完全に被害者の顔をしていた。

 

気づくとすぐ加害者になっていた私は

いつも申し訳なくて仕方がなかった。

自分はまだまだ未熟なのだと思って、恥ずかしかった。

 

散々思い悩み、弱り切った私に

「お母さんの言うことを聞いていればいいのよ」

と優しく語りかけ、囲む人。

それが私の母親だった。

大切なペンダントとして、私はとても愛された。

  

「生きにくい」の理由

よく犯罪に手を染めようとした人が

「あの時、母親の顔が思い浮かんで、思いとどまった」

などと話すけど。

それとはなんと言うか、質感が全然違うと思っている。

 

子どもならみんな、母親を喜ばせようとする。

悲しい顔も見たくない。

でも「母親を悲しませないように」というような願いではなく、

私は圧倒的に「恐れ」に動かされていた。

ペンダントとして、母親のために輝いていないと

自分には価値がないと思っていた。

恐れに支配され、行動していた私は、えらく生きにくかった。

そしてたぶん、母親も

人の目を気にして

恐れしか見えない人で

ひどく生きにくかったに違いない。

 

自分で決めているようで、自分では何も決めていない。

この時に気づいた時、私は退職までしてしまった。

意気揚々と歩き出したのだが、 実はちょっと足踏みしている。

迷子だ。

私はどうやって生きていけばいいのかわからないのだ。

自分の喜びがわからない。

今までは、自分の外に正解があり、模範解答があり

それをうまく読み取れさえすれば、それなりに評価されてきた。

 

でももう外に評価を求めないと決めてしまったのだ。

何が正解で、何が不正解というものもない。

自分の「願い」に耳を傾けて、生きていく。ただそれだけ。

迷った時は、自分の中に、探しにいけばいい。それだけのことだ。

 

それだけのことだけど。

自分のことがわからなくて、簡単には、自分の中にアクセスできなかった。

深く深く潜って、半年近く、浮上できない時もあった。

 

そう思って、浮上できない自分を慰めながら

「生きる」を続けてみた。 

 

子育ては「puppet」

そんな時、子育ては「puppet」なのだ、と先輩に教えてもらった。

私は息子とともに生きていく中で、絶対に忘れないようにしようと

これは胸に留めたことである。

パペット、操り人形。

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ワードだけを断片的に聞くと、ひどく恐ろしい。

ここで怒らず、ぜひ最後まで聞いてほしいのだが、こういうことだ。

 

生まれた時の赤ちゃんはたくさんの紐に繋がっている。

紐に守られながら生きている。

その紐を少しずつ、チョキンチョキンと切っていき、

最後の紐を切った時、その人形が自分で立っていられるようにすること。

これが子育てなのだと。

 

私は紐があって守られた経験をした。

不自由だった経験をした。

紐を自分で突然切り始めてヨロヨロした経験をした。

 

遠回りしたと悔やんだ自分の人生。

足踏みして、立ち止まって、振り返って考えてみたら

過去の意味が変わってきた。

 

 

「お母さんに愛されなかった、大事にされなかった」という絶望は

「自分を愛せなかった、自分を大事にできなかった」という

自分自身の悲鳴だったのかもしれない。

 

だから母親をもう恨んでいない。

ここで母親の悪口を書こうという目的も、持っていない。

 

ただ、自分の中で封印してきた気持ちを

ここで表現したいという気持ちがある。

自分の悲鳴に、一度光を当ててみたい。

 

自分が今まで見ないようにしてきたものを

改めて見ていくのは、辛い作業ではあるけど

これは放ったらかしていた自分の片割れを癒す作業であるのかもしれない。

 

これは、脳内に張り付いている「母親の声」「母親の顔」を

もう私には必要のないものとして、手放していく作業である。

ベリべりべり。

母親ではなく、自分を信じるという決断である。

私は最後の紐を、やっと自分で切ったのだ。

 

「あ、これ前にも聞いた話だな」って思った時に、どうするのが正解か。

しつこい人が怖い。

しつこい人が怖い。

だから私は夫と義父が、怖い。

2人は同じ話を何度もするので、怖い。

夫よりも、義母よりも、もちろん実母の方が群を抜いて怖いのだが

この話をすると、しつこくなるので、今回は割愛する。

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意図がわからないと怖い。

夫と話していて「あ、これ前にも聞いた話だな」って思った時に

2度目なら黙ってそのまま聞く。

理由は、私もそういうことあるかもしれないって思うからだ。

3度同じ話が始まると「その話100回聞いたよ」と堂々と97回サバを読む。

4度目は黙って横目で睨む。

5度目は「うるさい!」と言うか(攻撃)、黙って席を立つ。(回避)

 

ただ、もっと怖かったのが「その話100回目だよ」って言った時に

「うん、知ってる。でね、、」と言われたことだ。

おい、待てや。

そんな私はお構い無し、彼は言う。

「この話何度もしてるなって思ったけど、自分が今話したいから、話してる」

 

アタシは「そんな暴力があるか?」と震えた。

 

同じ話を繰り返し聞かされるのは暴力だ、と思っているのは

世界中で私一人かもしれない。

私以外の全人類は「それはコミュニケーションだ」と言うかもしれない。

だけど、私は勇気を出して言う。

同じ話を何度も聞くのが、辛い。

 

義父は嫁の立場としてどうしたらいいかわからないので、夫よりも怖い。

ただいつか、いつか、「その話12回目ですね」とか言ってしまいそうで、

そんな自分が怖い。

 

同じ話を聞いてても「この出来事について、回想を続けているんだな」と

思うことがある。そういう時はもちろん怖くない。

見守りたいから、見守っている。

つまり、その人の意図がわかない時に、怖いんだと思う。

なぜこの話を私に何度もするんだ?

どういうメッセージや!?というパニックが起きているんだと思う。

 

逃げれないと思うと怖い。 

小さい時から、昔の話を何度も蒸し返したり

やっていないことをやるまで追いかけてきたりする大人や先生が怖かった。

これは「逃げれない」という類の怖さだ。

 

そうだ、職場でも怖い人がいた。

「あなた公明党?共産党?」と同じ質問を何度もしてくる人だ。

「どちらでもないです」と言うが、彼女は許してくれない。

とうとう、放課後の教室に呼び出されて

「あなた、本当は公明党だよね?」と壁の隅に追いやられた。

「違います」「私は何者でもないです」と泣きながら訴える私を

睨んで彼女は言うのだ。

「あなたの魂も震えてるけどね、私のたますぃも震えてるんだからね・・・」

 

確実に私の魂は震えていたと思うが、彼女は大事なところを見間違っている。

 

その後も、私が職員室で色んな先生と楽しくおしゃべりしていると

遠くでこちらを伺っている彼女は、目を見開いて何やら口をパクパクさせた。

「私はわかっているからね」

 

私が何者だろうと、彼女には関係ないし

そもそも話す筋合いもないが、

自己申告と事実が違ったのなら

それは恨まれるかもしれないとは思う。

ただ、私が何かに属しているとか、そんな事実はないのだ。

とんでもない勘違いが輪をかけて大きくなっていく

彼女の思考のしつこさから、逃げれない感じが本当に怖かった。

 

 

さて、色々な人のことを、しつこい、しつこいと言ってきたが

自分はどうか。

私はかなりしつこい。

 

例えば、お互いいい年になった同級生。

カッコつけている30代男性。

その男性と笑顔で話しながら

「小さい頃は、よくう◯こ漏らしてたのにね」とか

「粘土食べて泣いたことあったね」とか、

「高校生の時、血迷ったストーカーだったけど、もう改心したのかな?」とか

心の中で思っていたりする。

顔には出さないけど。

「素敵な彼女ができてよかったね!」とか言いながら。

 

誰もが怖い一面を持っている。

私も多分、誰かにとっては、一番怖い人。

 

「冬がない人」になりたかった

私は結構気分にムラがある。

とても前向きで頑張れる自分と、

生きていくのが難しいと感じて身動きが取れなくなる自分がいる。

 

思えば後者の自分の存在をずっと否定してきた。

これは本当の自分じゃない、本来の自分を取り戻したい、

元に戻るまでは誰にも会いたくない。

 

そこに確かに存在している「難しい自分」を
ずっとないもの、「本当の自分じゃないもの」としてきた。

 

特に積極的に死のうとするわけではないが、

「生きる」を続けるのが、ひどくむずかしく感じる。

死ぬわけじゃないが、生きてるわけでもない。

そういう自分には罪悪感があった。

 

「こんな私が存在していて、すみません」

 

そういう自分は未熟であって、変わらないといけない。

人に見せてはいけないと長年思ってきた。

実際、見せて、離れていった友達も彼氏もたくさんいた。

うん。家族にも見放された。

このままの自分では、いられないと思った。

 

 

自分だけじゃない。


そういう「低空飛行」の状態を訴える人のことを疎ましく思っていたし

それを隠さない人は幼いと思っていた。

「お願いだから、自分で解決してくれ」と、思っていた。

 

私も、一番大事な時に見捨てて離れていく、ひどい人だったのだ。

感情を出すと「孤独になる」「みんなが離れていく」「うんざりされる」

というのは私の中でロックオンされていたけど

本当にそうだったのだろか。

 

私はこの世の、素敵な部分、ナイスな部分だけ認めようとしていた。

明るく、生産的な春や夏。

私は春と夏の自分だけ、人前に出していた。

秋の気配を感じ始めたら明るく「じゃっ!」と引きこもり

冬は完全に身を隠していた。

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私は「冬がない人」になりたかった。

理想通りにいかないもので

今、私は長い冬を過ごしている。

春の光が、出口が、見えなくて焦っている。

この冬は、辛抱するだけの、生産性のない、

無駄な時間だと思っていたけど。

 

もしかしたら違うのかもしれない

 

ということを、この長い冬が教えてくれているような気がしてきた。

 

日本には、春、夏、秋、冬とはっきりわかりやすい変化がある。

寒い冬を越すから、桜は綺麗に咲くんだと、いつかの誰かが言っていた。

 

「何もかも嫌になる時期なんて誰にでもあると思うよ?」と、

先日尊敬する人に言われてびっくりした。

そうだったんだ、知らなかった。

自分を含めた、一部のダメな人だけが、

この感情の大きな振り幅に悩んでるんだと思っていた。

こちらはダメで、あちらはOK、というジャッジ。

無意識の、すごく大きな分断があったのだ。

冬が無駄じゃないのなら、とことん味わってみるか。

 

 

私は今後、何者として、この世界で生きていくのか、と考えた時に、

見ないようにしてきたもの、蓋をして終わりにしてきたものに、

もう一度光を当ててみようと思った。

 

蓋をしたけど、見ないようにしてきたけど、

私は隠されたそれが、ずっと気になっているのだ。

 

みんなは、どうやって生きているんだろう。

春夏秋冬は同じことの繰り返しではない。

毎年、違う顔を見せる。

スパイラルで、進んでいるのだ。

それを感じて、考えて、全てに、光を当てて見たいと思う。

 

母と娘の関係「夫のちんぽが入らない問題」

こだまさんの「夫のちんぽが入らない」という小説を読んだ。

少しネタバレが入ってしまうので、ご承知おきください。
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私は書店で買う勇気がなかったので、Amazonで買いました。
表紙のデザインは著名人のコメント。

まっすぐ歩けないから 回り道。
でも回り道が一番の近道だったと気づく時がくる。
それがくるまで歩き続ける。
その歩幅を広げてくれる一冊。

麒麟・川島明(芸人)

 え、なに、川島さん素敵なんですけど!
あの声でこの発言は罪でしょう、嘘であってほしい。(なんでや)

 

 

母と娘の関係性について考える

タイトルからして、ふざけた小説だと思っていたけど
作者から独特な「生きにくさ」を感じたので
ここで思ったことを書かせてもらいたい。

 

夫のちんぽだけが入らない、作者、こだまさん。
みんながなんとなく大人になる頃には習得していく
生きていくための知識やスキルを持ちあわせていないところとか
(だから傍目には、かなり不器用な人に見える。けど本当はどうなんだろう。)
母親との幼い頃からの描写とか

 

もう、アレじゃん、って思った。
いつものアレです。

 

私はアダルトチルドレン関係のアンテナが常に立っているので
母と子(娘)の関係にめちゃ敏感だ。

夫だけを受けいることができない
謎のストッパーに
母との幼少期からの関係だけを結びつけるのは、
こだまさんの母親に対してあまりにも酷だと思うよ。

でも私はやっぱり母との関係性の中での自己の歪みがあったように思った。
それを無視しては考えられない。
今から書くこともそれに偏りがちだということを先に断っておきます。

 

母が娘を連れて謝罪に行くシーン

こういう描写があった。

「向こうのご両親に一度謝りに行かないとね」
母が前々からその話を切り出そうとしていたことに、私は気づいていた。
だからなるべく二人きりにならないように、話を持ち出す隙を与えないよう、神経を働かせていたのだ。
でも、その日はなぜか、もういいやと思った。
指名手配犯が無防備に商店街を歩くような諦めと清々しさで、
母に言われるまま、観念して腰を下ろした。

(中略)

「うちの子の身体が弱いために、お宅の後継を産んであげることができず、本当に申し訳ありません。うちの子は、とんだ欠陥商品でして。
貧乏くじを引かせてしまい、なんとお詫びしてよいか」

Aマートの話で主導権を握った母が、その流れで唐突に謝罪を始めた。
一体いつの時代を生きているのかわからなくなった。産まないことは罪だった。少なくとも私の母の中では。頭を下げる母。困惑する義父と義母。
「まだまだ若いんだから、これからでもできるさ。気にしない、気にしない」
それもどうかと思うけど、義父の冗談めかした一言で、この話題はおしまいになった。

 

 

これを読んだ感想で、世の中は大きく3パターンの人間に
分かれるんじゃないかと思う。

 

①え・・こんなこと言うお母さんいるの?と驚く人。

②あ・・(似てる)・・・と思う人。

③このお母さんも大変だったね・・・と言う人 &その他

 

すみません、3パターンって言ったけど
これ10パターン以上かもしれないなと思いながら
「&その他」という逃げの姿勢で無理やり3パターンにしました。


自分は②の人です。 

ただの感想ですが、①の人は、個人的にとてもうらやましい。
自分の息子にも①の人間になってほしい。
(おばあちゃんの姿を見てるから無理か?)

 

③になんて書こうか迷った時に、思い浮かべたのは実母(まりこ)でした。
まりこさんだったらなんて言うかなって。

というかこだまさんの母はうちのまりこか?という感じなのですが。
色んなセリフが細かに思い浮かんだんですが、場面によるかな。

 とりあえず思うのは、まりこさんは誰かしらに同情はするだろうけど
小説を読み、母親のシーンに触れても
娘を傷つけているこの母親と自分の姿を重ねることはないと思う。

なぜこの人はいつも自分を省みないのだろうって不思議だったけど
それはまりこさんの特性なのかもと最近は思ってる。

悪気のない人を恨んでも仕方ない。

 

ただ、私は、この文面から娘(こだまさん)の悲鳴が聞こえるのだけど
(母親の悲鳴も聞こえる)

その叫びが全く耳に入らない人がいるのかもしれないと思うと
普通にちょと悲しい。

というのも、結構この作者は色々なところで怒られている。
怒りたくなるのも、もどかしく感じるのもその通りだけど

その感情を元に考えたいことって結構ある。

 

その人の悲鳴を聞かず、批判する人はきっとたくさんいる。
でも耳をふさぐ人にも、
ただ批判するだけの人にも、
それぞれの叫びがあるのかもしれないと思ってる。

報われなかった過去の痛みとか、無茶な頑張りとか、
言語化不可能な怒りに蓋をして
見ないようにしていることがあるのかもしれない。

 

作者の母親像について

この母親像について思ったことを書きたい。
当たり前だけど全部、憶測です。

 

・自分と娘を切り離して考えていない

・だから娘を傷つけているなんて思いもしない

・もしくは娘は傷ついても仕方ないと思っている

・だって私(母)がこんなに傷ついているんだよ?という胸中

・娘の人生を勝手に背負う、それもひとりで

・娘の失敗は自分の失敗(だと思われるからコントロールしたい)

・コントロールしたいけど、コントロールしきれない存在の
 不器用な部分が目につく、許せない

・一緒に謝りに来た私を見てください

・私は悪くないんです!!

・この娘が悪いんです!!!という叫び

 

一言でまとめると、母親の謝罪行脚は
「こんな娘のために今までも頑張ってきました。この娘の母親として精一杯
頑張ってきた私を認めてください・・・」
という悲鳴に感じた。

 

本人は必死だろうけど、実娘や相手方の両親からしたら・・・ひくよね。
でも本人はね、命がかかってるくらい必死なんだろうな。

「自分はこれを悪いことだと思ってるんです・・・でもねうちの娘が・・・」って。

欠陥品だなんて、すごいひどい言葉を吐いてることにも気づかないくらい
この母親は、自分を守るのに必死なんだろうな。

 

「謝罪しているこの私も被害者」

ここからは私の母親、まりこの話になります。
彼女もこういう悲鳴をよくあげるのです。


私は配慮のない言葉に傷ついたうえに、
止めようのない悲鳴を聞く羽目になるから
本当に迷惑だと思っていた。

私が傷つくなんて思っていないのか、私の感情なんて御構い無しに。
そして自分が傷ついたということを、もう言いたい放題だ。

 

この小説のような時代錯誤の謝罪も、目の前で見せつけられてきた。
そのたびに「謝罪している私(母)も被害者なのよ」という姿を見せつけられた。

 

「見せつけたれた」と、含みのある表現をどうしてもしてしまうのは、

母の言葉のチョイスや表情、態度から
自分がこのような謝罪をして健気だ、とか
可哀想だとか、思っているように感じたからだ。

 

これは私のフィルターを通しているのできっと真実ではない。
でも今のところ、そう受け取るしかない。

自分なりに腑に落ちるカタチで母親との関係を見て行くしかない。
近くで見聞きするとダメージを受けすぎちゃうから
最近は俯瞰するようにしているんだけど、
そうすると聞こえてくる声がある。

まりこさんが感情的になっている時って、よくこういうこと言ってる。

 

・私は正しいの。

・あなたの選択が間違っているの。

・失敗したらあなたの責任であって私の責任ではないの。

・とはいえ失敗したら結局私の責任になるのだから考えを改めなさい。

・私は反対したわよ、失敗しても知らないわよ。

・まだそんなこと言ってるの?いい加減、改めなさいよ、失敗するわよ。

・お願い、諦めて、あなた失敗するから。

・失敗なんかして親の顔に泥を塗るな!!!

 

ものすごーい、恐れが聞こえてくるんですよね。
こんな感じなので、私が失敗したり傷ついたりしている時は
慰めてもらえなかったどころか、一方的に責められました。

こんな状況で母親からも攻撃受けるって最悪なので
いつからか、母親には本当のことは話さなくなりましたね。

 

まあ、全部憶測なんですけど。
一応忠実に言語化して見ました。 

 

・母親は父親に頼れず一人で頑張ってきた。

・頑張っても認めてもらえなかった。

・認めてもらえないけど、失敗をすると責められた。

・できて当たり前というプレッシャーがあった。

・失敗するのがこわかった。

・子育てが怖かった。

・自分の思い通りにならないことで自分の評価が落ちるのが嫌だった。

 こういう感情があったのではないかな?って思えてきます。
だとしたら、まりこさん、辛かったんだろうなって。

 

もうウォールマリアは必要ない


でも知ってますか?って母親に言いたい。

お母さんの人生はお母さんの人生。
私の人生は私の人生。
私はもう自分で責任を持って生きてますよ。

もうとっくに、お母さんの管理下ではないです。
だから重荷を下ろしてくださいね。
それが私にとっての幸せです。って。

 

色々あったけど 私の幸せ、願いは、これにつきます。
自分も、人と自分の人生を区別して、楽しく生きて生きたいなと
思う次第でございます。

 

この場を借りて、自分の気持ちを改めて成仏させてもらいました。

 

こだまさんもこの本を出したことで、
こだまさんのウォールマリアは壊されたな・・という印象を受けました。
今後も応援したい作家さんです。

 

今現在、お母さんとの関係でモヤモヤしている人にも、
いつかカラッと笑える日がくるといいですね。

ちびまる子ちゃん症候群

さくらももこが大好きで
小さい頃から、漫画もエッセイもたくさん読んだ。

 

ある日曜日、ちびまる子ちゃんを見ながら
さくらももこ先生が亡くなったことに胸の痛みを感じていたら
あることに気づいた。

 

あれ・・・まる子って・・・自分みたい!!!!!

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胸も腹も痛かっった。

 

その日もまる子は、
たまちゃんやおじいちゃんにちょっかいを出しながら
一発逆転のラッキーが降ってくることを
口を尖らせて待ちわびていた。

いつものやつです。

 

キーワードで羅列するなら、こうだ。

 

他力本願、責任放棄、投げっぱなし、好奇心旺盛、お調子者、
ちゃっかり者、怠け者、欲望の塊、棚からぼた餅、柳の下の泥鰌、
一利一害、努力不足、宿題放棄、お手伝い放棄、お節介、お人好し、
ちょろちょろ、姉と母はお口をあんぐり

 

このまる子、将来さくらももこ大先生になるんだよなって知ってるから
寛大な心で笑って楽しめるけど

今の自分と重なって見えてしまったら、もう終わりだ。

日曜日の夜に、現実に直面して笑えなくなる症例を
ここでは「ちびまる子ちゃん症候群」と名付けることにします。

 

もう30も半ばの女がオリンピック選手をテレビで見て

「あ〜私も金メダル獲りたかったな〜」とかね、言ってる場合じゃないのよ。
いい加減、目を覚まさないと。


インスタとかブログとか、ちょっとやってみて
ちょっとやってみたからこそ、思ったというか
すごくわかったことなんだけど。

 

フォロワーがたくさんいる人って、
マジですげー努力してルナって。

 

インフルエンサーのあなたは、
「努力なんてしてないよ〜、毎日コツコツやってただけ」って
余裕のsmileでいうかもしれんが

 

毎日コツコツ、これだけ積み上げていくって
(そして、それだけの人に支持されるって)

やっぱり片手間ではできないわけでね。

 

私も昔、某アプリでよくわからない間に
一夜にしてフォロワーが増えに増え
気づいたら5000人のフォロワーがいたという
棚ぼたを経験してしまったものだから

 

まあ、「次のラッキーはいつ来るかな〜」って
寝転がって正座占いみて
楽しみに過ごしてたんだけど。

 

だめっっ!!!!
根拠のない自信だけで生きてる大人の恐ろしさよ。
このままペラペラに生きて枯れたように死ぬところだったよ。

 

でもさ、アニメのラストでまる子がいいこと言ってたんだ。

 

「宿題をやった日の夕ご飯って、すごく美味しいね!」

 

何者かになろうとか
人から認めてもらおうとか
思わなくなって楽になったけど。

更にもう一歩、もっと毎日「やりきったー!!」って思えたら
何かが積み上がっていくのかな。
積み上がったそれを、見てみたいなって願う自分がおります。

 

ちびまる子ちゃんは、外の全てが輝いていた昭和の時代。
これからは、というか今は、
もっと一人一人が自分の内側に輝きを見出す時代なのかな。

 

あ、全然違う話になってしまったので、今日はここらへんで。
これからは、私も「夕飯が美味しいね」って言えるように頑張りまッす。

約束されたはずの幸福を噛みしめることができない、それはクッキー。

イライラする人、冷えに悩んでいませんか?

そして砂糖と小麦が体を冷やすということをご存知だろうか。

私は身をもってこの事実を確認した。

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ある日、私は夫を引き連れ、ベビーカーを押し、渋谷にいた。

メガネの「おばさん」が、エプロンをしてクッキーを持っている

この看板を見た時、私の5分後の幸福は約束されたと思った。

クッキー食べ放題60分 880円。

 

クッキーというものは、もうちょっと食べたいのにな〜
という上品な量が、綺麗な袋や箱に詰まってる。

私はいつか気の済むまま、腹いっぱい食べてみたいと思っていた。

 

そしてこの頃の自分は、母乳育児ノイローゼに加え、
むしゃくしゃすると暴食に走るという
独身時代からの傾向が残っていた。

 

「30枚くらい食べられるかな~♪」

 

あまり甘いものを食べない夫を付き合わせ
鬱憤を晴らしに店に来ていた。

 

出産を機に砂糖をとるのをやめ、食事に気を使うようになった。

食事に気を使っているのに、おっぱいが毎日数回詰まった。

それが辛くて、投げやりになっていた。

(あとでわかったのが、お米が原因で詰まっていたんだけど。
そりゃ詰まるよね。お米を毎食、食べてたもの。)

 

店内に入り、紅茶を注文し、渡されたトングと小さなカゴを持って

薄笑いを浮かべ店内を物色する。

小さなカゴにクッキー6枚がおさまり席についた。

 

美味しい~!

久しぶりに食べたお菓子は、美味しかった。

 

しかしだんだん「あれ?」という感覚が。

お腹は空いてるのに、食べらえない。

 

もう無理だと思った。

 

そんなのおかしいじゃないか。

 

(私の胃の中は紅茶の上に粉々になったクッキー6枚が浮いてるだけだぞ。)

 

脳が「これ以上食べるな、絶対食べるな!」ってストップをかけてくる。

 

(これはエラーメッセージか?)

 

ここのクッキーは1枚80円くらいなので、現在480円。

渋谷までの電車代640円。

 

赤字だ!

 

震える手で小さなカゴを持ち

「だ、第二ラウンド行ってくる」と席を立つが

本当にどれももう食べれる気がしない。

 

なんとか2、3枚選んで席に戻るが、寒くて震えが止まらない。

夫も「寒い寒い」と言って小さくなっている。

 

暖房の効いた部屋で2人でコートを着て寒さに耐えるが、

もう体の芯がキンキンに冷えているようでどうにもならない。

全身の毛穴から冷たい風が抜けていく。

 

寒い、眠い、顎が疲れた、喉渇いた、寒い、眠い、寒い。

テーブルに伏した。

 

(死ぬんじゃないか?)

 

だめだ、とにかく温まろう。

紅茶お代わりしよう。

え?別料金?

嘘でしょう。

どうする?

うん、ここで死ぬわけにはいかないよね。

うん、そうだよね、頼もう。

 

結論:クッキーはね、お腹いっぱい食べるものではない。

 

 

約束された幸福を目指して渋谷まで来たのに。

一時の天国から、あっという間に生きる気力までも奪われた(大げさ)

 

これは私たちが一度、砂糖と距離をとって
生活してたからこその反応だったのかもしれないし、

そうじゃないかもしれないし、わからない。

イライラするのがもう嫌で、止むを得ず砂糖を絶ったが
お菓子に対する未練は残っていた。

でもこの極寒体験をして、なんか諦めがついた。(諦め?)

 

確かに美味しいのだ。

でも食べるとガツンと脳に直撃してくるような
パワフルな砂糖はもういらない。

その甘さは魅力的ではある。

でももう私には必要ないのだ。

 

むしゃくしゃして、暴食に走っても

いつも「私が欲しいのはコレジャナイ感」が虚しかったのだ。
そしてすごくイライラするのだ。

だから、やめたのだ。

 

体も心も温まる食事をとろう。

それがわたしのご馳走なのだ。

 

という、まとめが出たので、この話は終わり。

 

クッキーはいつだって、今だって、

心惹かれる魅惑のお菓子であることは間違いないのよね。

でも嗜む程度、誰かが笑顔になる一枚で十分。

 

今後は暴食したくなっても暴食で解決しないようにしよう

と思った体験でした。

「ひとりが好き」とは言えない、圧力

 

家にいたい理由は

ひとりでいること、

家にずっといることに

罪悪感を持っている人いますか?

 

あなたと私は違うなって思いながら読んください。

家にいたい、もしくは、外に出たくない理由は人それぞれだから。

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私は、みんなと仲良くしたいけど

集団生活にはどっぷりハマりたくないという時期が定期的にあります。

 

自分のやりたいことがあって、

なるべく周りに巻き込まれず、

自由にできるポジションを確保しておきたいって

思っていることが多い気がします。

 

怖い・恐い・コワイ・隠れろー!

そんな私が怖いのは

「それはダメだー!!」という周りからのプレッシャーです。

 

私は他人から見ると「なんか心配」という要素があるようなんですね。

放っておけないみたいな。

なんでかな。はてな。

相性も大いに関係あると思いますが。

それで「出ておいでー!!」ってガヤが入る。

 

でも私は「大丈夫だから放っておいてくれ〜」って

小さい頃から、割といつも思ってたような。(おいおいっ)

 

とは言え、そこで私はスルーできませんので。

マジで悩んでしまってました。

私やっぱり変かしらとか、

間違っているかなとか、

人に心配をかけてしまっているのかなとか。

 

そうやって停滞するのが嫌で。

だから私がこもって何かをやっているのがバレないように

人との距離を保ってきた。

 

こもりたいって素敵なことだよね

外からの情報が入らないところで、

何かに熱中したい、

一人でゆっくり考えたい、

巣篭もりしたいような時がある。

これ、ほんとは素敵なことじゃないですか?

と今更、気づいた。

 

圧倒的な時間が必要なことがある。

使い古された表現で申し訳ないけど、

蝶になる前は蛹の状態だとか、漬物はすぐには完成しないとかさ、

よく言うでしょう。

ひとりの時間って本当に大切だから。

「働かざる者食うべからず」とかさ、本当うるさいから。

学校行けとか、会社いけとか言われながら

「家にいる」って選択するのって本当に嫌だろうなって思う。

 

でも最近よく思うのは

(ガヤが苦手なのは変わらないけど)

プレッシャーが時に自分の手を引っ張ってくれるような感覚があって、

人との関係って無下にはできないよなって。

 

ガヤが入らない場所に身を置いてしまったら、

それだと本当の意味で

自分のことを私は守ることもできなくなってしまう気がして。

 

私も普段は透明な耳栓してるけど

時々ガヤの力で自分を奮い立たせることもありますよ。

「うるせー!私の本気を見せてやる!」って。

(どんな本気や。)

 

例え、誤解されても、わかってもらえなくても

自分が自分を信じていられれば、よし。

 ごめんねさいね、急に文字大きくして。

 

周りがどうであれ、自分は変わらない。

無理に変わる必要はない。

時が来るまで

自分はやりたいことをやるのだ。

だから、むやみに人と距離もとらない。

なんかもう、そういう選択を取らなくていいかなって

思ったというかね。そういうカンジです。

 

この決心が、私の何かを変えてくれたのは

多分間違いない。